言の葉周遊(あきおの読書日記)

読んだ本、気になる言葉、詩を書いていきます

第38回 詩のいろり  テキスト 続鈴木志郎康詩集 思潮社

 続 鈴木志郎康詩集を開いた。『家庭教訓劇怨恨猥雑編』『完全無欠新聞』と続く。鈴木が注目を浴びた「プアプア」詩の延長にあるのだが、少女、処女、陰唇、グングン、など猥雑な言葉やナンセンスな言葉が続く。読むに耐えない貧相な言葉の連続に嫌気がさす。
 時代は1970年代。鈴木の実験は世間の詩の常識と闘ったのだろう。鈴木は言葉から意味を外すことを狙ったのかもしれない。と思いながら、鈴木の詩論を読んだ。
 そこには次のような言葉が出てくる。「近代主義はあらゆるものを言語化し、形式化しようとする。」「私はわけの分からないことを考え、わけのわからないことをしたいと思う。つまり、私の前方にレールのように続いている言葉を途切れさせ、私自身の身体を使って歩いてみたいと思うのだ。」そして「私はもっと先のない言葉が必要なのだ」と叫びのような言葉が書かれている。
 当時カメラマンでもあった彼が撮った映像を見ると、ねじめ正一伊藤比呂美、それを撮影する彼。これから新しい詩を作っていくんだ、という朗読のパフォーマンスの熱量を感じることができる。文字で書かれたものだけが詩ではない。表現ではない。という熱気を感じるのだ。
1970年代の詩集
『完全無欠新聞創設綺談』
完全欠如が私こと完全無欠新聞社社主の美徳なのです
何んにもない/社屋、無シ/輪転機、無シ/活字、無シ
用紙、無シ/社説、無シ/キャンペーン、無シ/記事、無シ/記事書く机、無シ/記事書く手、無シ/記事たる言葉、無シ/それにも拘らず我が新聞社は/朝刊、昼刊、夕刊、夜刊/腔腸/縮刷版の出来るまでも報道したのです/私が生きているから

角を曲りなさい/そして又角を曲りなさい/それから又角を曲りなさい/角を曲るのです/そして又角を曲るのです/それから又角を曲るのです/苛立つな!/角ですよ/推に聞いてもわかる角ですよ/知らない人のない角ですよ/老人は勿論です/ほんの子供でも知っています
角を曲りなさい/角を曲るのです/もうあなたです/欠けることのないあなたです/あなたが世界に欠如した唯一の記事です/あなたはあなたをむさぽり読みます
万民は万民をむさぽり読みます/完全無欠新聞

 朗読すると、より感じられる。朗読することを前提で作られた詩のようだ。先ほど書いたように、このほかは猥雑な言葉やナンセンスな言葉が嵐のように投げつけられる。黙読では読むに面倒だが、朗読パフォーマンスを聞きたいと思う。しかし、こういう詩から一転、静かな詩に転換する。

青草の上に
青草の上に腰をおろしましょう/私たちは抱き合わない
そんな力の要ることはしません/青草の上に並んで腰をおろして/私たちは手を握り合わない/そんな力の要ることはしません/五月の青草の上に/全身の力を抜いて
腰をおろしましょう/青草の葉脈を還流する水分を冷く感じながら/私たちは喋らない/私たちは互いに言葉を
かなり遠くへ飛ばすように/言葉だけに力を込めているのです/私たちの言葉が/互いに求め合って/力の限りきつく抱き合い/激しく性殖すればよいと/青草の上に
全身の力を抜いて/思っているだけです(詩集『柔らかい闇の夢』から)

 鈴木が脚光を浴びた実験詩は、影を潜める。生(なま)な家庭を描いた詩も多くなる。行分けしながらも、決して凝縮された言葉ではない。どちらかと言えば散文的でさえある。
 彼の詩を読み進めていくうちに、多く出てくるシーンに便所がある。便所を使って、恋の詩を書く。会社の不条理を書く。隣人を書く。孤独であり、便所は生の象徴的なような場所に思えるのだ。
 もう一つは家庭が壊れる風景だ。死が所々に顔を出す。
読書会をともにしたYさんの感想だが、的を得ている。
「処女にこだわったのも、妻と息子にこだわったのも、いつ壊れるかわからないものだからでしょう。いつ奪われるかわからないもの。怖い気持ちがあるからこそ、ずっとそれをテーマにしてきたのかもしれません。
鈴木の詩とは、大事なものを失う恐怖との戦い(朗読編)、といったところでしょうか。」
 先ほど書いたように詩集『柔らかい闇の夢』以降は実験的な詩方は姿を潜め、平易な言葉を使っていく。しかし、静かな詩ではない。詩の中にはどこかで事件が起こる。「終電車の風景」では散らばる新聞紙に目をとめる。「チョン髷男と子供」では、電車の中の風景を描き、これがお前の未来の姿だ、とちょんまげ男が子どもに言う。「見えない隣人」ではエレベーターの焦げたボタンに注目する。「寝息の会話」では「寝息の会話ということがあるとすれば/それは人人の頭の中から夢が流れ出して/雨の音のように/お互いにまざりあうことになるのであろう/夢はどこか死のにおいがする/人人の寝息の会話を考えると/そこにも死を思うときの自由さが/私の想像を刺戟してくるのだった」と書く。「沸騰する湯に感傷する」では子どもにお湯がかかったなら、との連想からさまざまな不幸なことを思い浮かべる。
 読んでいて、とても自由で、気張りが感じられないのが不思議だ。詩作品で日常を描きながら事件を起こす。何か面白いことはないかな、と捜す、詩人の日々の呼吸を感じるのだ。

2008年以降の作品では老境の日常を笑い飛ばす。
『詩集ぺちゃぷる詩人』  
「青首大根に笑われちゃったって」
「青首大根が笑っていたんですよ。/小癪な、とばかり、/笑いごと擦り下ろしてしまいました。/夕飯のサンマに乗せて食べちゃいました。/うふふ。//青首大根の奴、/わたしの米を研ぐ手つきを、/先ず笑った。/腰痛の年寄りの似合いの手つき、/ということで、/笑っちゃいました、ということ。」(以下略)このような書き出しで始まる。「蒟蒻のペチャブルル」では、「コンニャクが/わたしの手から滑って、/台所のリノリュームの床に落ちた、/蒟蒻のペチャブルル。/ペチャブルル。/瞬間のごくごく小さな衝撃と振動。/ペチャブルル。/夕方のペチャブルル。」

鈴木志郎康の詩に込める想いを書いて終わるとする。
『声の生地』から「詩について」と言う作品から引用する。まあ、そう気張らないで、の 次の言葉が好き。

生きる自由だ、
詩は。
他人から遠く、
密かに、
元手も掛けずに、
言葉を社会から奪って、
世界を名付ける
声、
突き動かす
声、
願望が
時間を濃縮する、
瞬間の自由だ、
詩は。
未完の自由だ、
詩は。
まあ、そう気張らないで、
個の地平に
立て。
この原則を
守れ。
ビュン、ビュビューン
ビュン、ビュビューン
ラ、ラ

 

 

もう一つ私が好きな作品 を掲載します

 「私は椅子に座して」(詩集『家の中の殺意』)

私は何をして坐っているのだ

男が椅子に座している
私の精嚢の中で精子が増殖している
私の前に女が座している
妻の卵巣がゆっくり口を開けて
卵子を吐き出す
男も女も
自分たちの
そんなことの会話はできない

恐怖して見たものが
脳の中に残っていることはたしかだ
逃げる姿勢を取る
この確かな
形が
腰にある

考えは一様に
自分の存在の許しを願っている
子供のときから
何度泣いただろう
泣き止むときには

灰色の湖面が
厚い雲におさえられて
まだ長い月日を
歩き続けるときめてしまった
旅人を
追ったようだ

私が生きているとき
何人もの人が死んでいる
まだ生まれぬものさえ死んでいる
私は椅子に座して
精嚢の中では精子が増殖している
私はそのことを知ってはいるが
それはまるで、私にとっては
余分のことであるようにして
見知らぬ死人がいる傍で
繁茂する草の中に
寝ころがって
太陽の匂いを楽しむこともできると
呑気に
今日も五人の死者が出たと
死者の写真を
新聞紙の表面に見ている

生暖かい
いやな風が外に吹いている
家の中には湿気が充満して
一夜でいたるところに黴が生えた
黴の生えたものは、鞄、靴、皮バンド
それに植物性のもろもろのもの
嘗て生きたものの
表面に、別の
生きたものが出て来たのだ
恐怖が
私の身体の奥深いところで、わずかに
移動する
そのわずかのずれが
自分の輪郭を掴めなくさせる
外には
生暖かい雨が降り始めている

私は椅子に座している
精嚢では精子が増殖している
死ぬと
私の腸の中ではバクテリアがにわかに繁殖する
死体は腐る
しかし、それは私には余分なことだが
恐怖が残る