言の葉周遊(あきおの読書日記)

読んだ本、気になる言葉、詩を書いていきます

財部鳥子さんを読む

私的私読 私の読書ノート
  財部鳥子さんを読む
        テキスト 続財部鳥子詩集

財部鳥子さんは中国、満州で十一歳まで育った。敗戦後日本に引き揚げる途中、妹、父を失う。多くの人たちの死を見た。エッセイ『少年の日々』にはソビエト兵の暴行を避けるために、頭を丸坊主に刈られ、少年の格好をして過ごした収容所の日々のことが書かれている。
 それから二十数年をえて発表された詩「いつも見る死」には「避難民として死んだ小さい妹に」との副題が添えてある。そして、別の詩では「きみの耳なりは詩の音 死の音とよぶ/髪を刈られた極限の少女がすわりこんでいて/永遠にうごかない息をしている」(「詩の音」)
 妹、そして父の死、多くの人々の死は、いつも財部さんの心の底にあったのだろう。「深い井戸なんか覗き込むな/そこには必ず幼い妹が死んでいるのだから/夜明けにふと目をさましたりするな/銃撃の音と/キャタピラーの地鳴りの残響が聞こえるから」(「禁句」)これは六十七歳の詩集に収められた言葉だ。
 詩を読み進めていて、このように直接性のある作品は少ない。むしろ情を突き放すように書いていく。そして、「詩的」なものを拒否するように詩を書いていく。「水とモンゴル」では、「水を飲むとき海を思ったりしないです」と水を思ったりしない、という言葉を繰り返し使うことで、展開を留めようとしながら、詩の作品を作っていく。
 「烏有の人」いう詩集がある。烏有の語源をひもとくと漢の時代の詩人が作った物語から来た言葉で、「烏有の事」ということばは、小説などの虚構、こしらえ事を意味するようになった。とある。このように、財部さんは中国詩にも精通されていたようで、中国の故事、言葉なども使われる。
 「烏有の人」では父が作られていく。この詩では父の存在感と詩の後半に出てくる「湯灌」という言葉がなんとも恐ろしい。湯灌は死者を洗うときに使う言葉。財部さんは死者の存在を捜しながら、作品を仕上げて行く。「わたしには父の実像が欠けていた/ 父 それが指すところのものはツタンカーメンのように烏有/うつくしい優曇華のように烏有であるらしい/詩は存在するが/詩人は存在しないように/父を思い出そうとしてもそれは空無を探るように何もない」(「烏有の人」)
 母のことを書いた詩も印象深い。
「月は北極の海の方にいて、老いさらばえた母のクラゲ
のような腕を密かに照らしていた。/彼女は街道に廃棄されている粗大な石くれに腰かけた。」(「月光と母」)
「八十九歳の母はひるねの夢を愛している。とくに淫夢を愛しているようだ。」(みみずく「ゼン」の思い出)
 母に淫夢を見せる作品には驚く。別れや死を書くとき、悲しみの情に巻き込まれてしまうことが多い。そこを突き抜けるのが、死者を抱えてきた詩人財部さんなのだろう。彼岸、此岸という感じではない。むしろ、死者と共にあるような世界なのかもしれない。
 財部さんの詩を小池昌代さんは、次のように書いた。
「こころの虚空を大鷲が跳ぶ/哀しみを引きちぎるような力強さで/戦後70年/その長い年月を死者と共に生きた詩人は/いま、全身に銀の霜雪をかぶり/冷気漂う湖のように美しい」そして財部さんの詩の言葉を「無へ豊かに広がる言葉」とも続けた。
 「七月の空気は透明な裸/恥ずかしいから蓮池に隠れている/大きな葉のしたから蕾を高々と掲げて/みんなに見せている」(「七月」)という詩を読むと小池さんが語っていることがわかるような感じがする。この詩では蓮の花から、百歳の手のひらを配置することで、自然の時間、人間の時間、そして、しわに象徴される時間を短い詩の中で描いている。人生後半期の財部さんの詩には、このような印象深い詩が多い。
 財部さんの詩には映画のワンカットを見ているような描写力が読者を捉える。「杏の肉 」は「わたしたちは砂糖漬の杏を静かに食べた。/二人はほんとうに種子を抜いた甘いすこし乾してある杏を食べていたからね、このことばを使いたかった。/アルミの皿にいれて。」と始まる。場面は中国の遊覧船。砂糖漬の杏と私たちの唇。なんでもない描写のなかに、大陸の空気と人生の時間が流れていることを感じるから不思議だ。この作品につて、佐々木幹郎は「なんでもないことを、なんでもないように描き、それをなんでもないように作品にする。これはとても高度な技法を要求する」と書いている。
 詩と死を抱えて詩作を続けてきた財部鳥子さん。二〇一一年三月十一日を中国北京で知った。「大江のゆくえ」作品冒頭で独語のように書く。「衰耄する女詩人は原子力発電所メルトダウンしたあと涙が零れてならなかった。こんな成り行きに遭うために生きてきた無念、そして「死にたいと思ひつ春の旅鞄」などと韻を踏むしかない自分。北京着いてみれば前途の見えない排気ガスに噎せかえる。 (中略)毎朝の餐庁で大型テレビに映し出される日本の地震津波、壊れた発電所、防護服の決死の作業員たち。世界はもうここから引き返せないのだ。粥を啜りながらまたぼやいた。「諸葛菜デラシネの髪も白髪に」尾羽打ち枯らした女詩人はいずれ再び引揚者になる。」と結ぶ。
 もしかしたら、私たちは引き揚げ前夜の時代にいるのかもしれない。そのようなことを感じながら、財部鳥子さんの詩集を読んだ。