言の葉周遊(あきおの読書日記)

読んだ本、気になる言葉、詩を書いていきます

詩集「吹き抜けた時」雑感

詩集「吹き抜けた時」 辻岡真紀子     出版 澪標

 

 読んでよかった。気持ちのいい詩集だった。生きてきた時間を、生きている時代を抒情ゆたかに書く。その抒情は余白にぽつんと置くようにさわやかだ。
 「おひとり様」「パセリっ娘」「本の虫」「愛読書」「書店」など、女の子から女性へ歩みだす作品群は、読者として成長を見ている感もする。「ほんやら洞」は時代の空気を映し出す。自分の核が形成されていた頃を描ける力に感服する。
 僕の好きな作品は「鞄」。就職活動をしている女子大学生なのだろう。この時期の「女子」学生の厳しい状況が浮かんでくる。

 

 リクルート鞄を提げて

 駅へ向かう
 
  十社めだ 
 
 梅雨時のモノトーンの空は
 途中で
 冷たい大粒を落とし始めた
 傘を広げて
 あやういところで足を止めた
 
  かたつむり

 

ビル街の歩道の真ん中

雨に濡れたアスファルトを舐めて

もぞもぞ のろのろ

立派すぎる殻をかついで

 

 この詩で「十社めだ」が社会状況を反映する。このあと梅雨時の灰色の風景が描かれる。「雨に濡れたアスファルトを舐めて もぞもぞ のろのろ 立派過ぎる殻」「鞄が 肩からずり落ちる」作者の心象を見事に語っている。そして、かたつむりをマニュキアの指で紫陽花の葉に乗せてやるところも優しい。
最終連で作者はこのように書く。 

 鞄を抱え直し
 勢いを増してきた雨の中
 急ぐ
 
 この心のスタイルは多くの詩で出てくる。
 表題詩「吹き抜けた時」も好きな詩だ。この詩の中に書かれている「飛べなかった空」は、この詩集の、その場所に置かれることで、回想とともに味わいをもってくる。そして、残った風車が「誰もいなくなった場所で回り続ける意味」を「風に問う」。これによって作者は詩作品前段に書かれた家族のことを、さりげなく読者にも問うのだ。そして、あなたの「飛べなかった空」を思い出させる。
 Ⅰにまとめられた最後は「ある卵のうた」。ベランダに一個残された、孵化しなかった鳥の卵。作者はつぎのように書く。
 
 やがて季節はずれの台風一過の朝
 巣は丸ごと消えていた
 あとには砕けた卵の殻から
 夥しい私の字が
 孵らなかった思いの欠片が散らばっていた

 詩人は思いを言葉にしようとする。しかし、すべてが言葉にできるわけではない。言葉に掬いきれなかった思いが転がっている。それも詩なのだ。

 Ⅱは季節の一瞬の風景を切り取り、詩作品に仕上げる。ここでも抒情はウエットではない。小気味のいい抒情が作品化される。読んでいて心地いい。春夏秋冬の順番に並べてある作品群。情にとどまることなく、次へ向かう作品が多い。読者は読んでいて、さわやかな、何もかも引き受けた、さっぱりした一歩を感じるだろう。例えば「ひとひらの春」と題された作品。

 桜の迷子が
 余白に舞い落ちた

 残照が
 窓の外に滞る夕暮れ
 わたしも迷子を連れて
 花のありかを探しに行く

 「躑躅」と題された詩では、表札を見ながら大家族だった我が家を思い出す。その描写の最後は「久しぶりに鏡台を開け 花色の口紅をさしてみた」この詩は口紅の色と「躑躅」の花の色、そして、字そのものの面白さを作品にしている。
 この作品でもそうだったが、多くの作品が行為で終わる。「行く」「色づき始めた行路を たどり続ける」「びりっ子は翔けだした 夕陽の待つ 茜色のゴールに向かって」などアクションで終わっている。冬を描いた作品でも、「自販機」から買った暖かい飲み物をもって、「空の巣に一緒に帰る」
 これらの歩みは、いろんなものを抱えているだけに、深みと重みを感じる。そして、歩み出す一歩に力づけられるのだ。
 「大夕立」では、「空が決壊し」「ひびわれて滝のように流れ落ちる。往来は川になり、心の河口を求めて急ぐ」と書きながら、
「私は待つ。すべてを水に流した空があっけらかんと笑うのを。雨上がりの町は夕陽に滲み、新しい私がそこにいる。ブルんと身震いして、私は始まりへと歩きだす。」

Ⅲでまとめられた作品群には、作者が歩いている今が書かれる。「掌(たなごころ)」と題された作品。

 何を掴み 何を掬いあげたのか
 夢みても 努めても
 この手のひらから
 こぼれ去ったものは測り知れない
 それでも私は両手を差し出す
 たとえ一滴がこぼれ落ちても
 掌のうつわは
 満杯の温もりを湛えているのだから

 この作品でも、作者は意志的であり、味わい深い情緒を醸し出す。他の作品でも心のベクトルと抒情がユーモアをもって描き出される。夫との関係を描いた作品「銀婚式」「文明の利器」、成長した息子への思いを描いた「黄色いトレーナー」。どの作品も、さわやかに受け止めることができる。愛を描くには、ユーモアが必要よ、と教えてくれるような作品だった。そして母との別れ、「僕」と描かれた人との別れが作品化される。
 Ⅲの最後に収められている。「見知らぬ故郷」の最終連

 あれはどこの町だろう
 記憶が切なく訴える
 夢の中で
 いつも私は少女にもどり
 小さな足で心の路地をさすらいながら
 通り過ぎていく風にすがる
 どこから来たの どこへ行くの、と

 この詩集の全体を締めくくりにふさわしい。どこから来て、どこへ行くのか、人の生死の永遠のテーマではないか、と思えてくる。そして、「吹き抜けた」と感じる、年齢はあるのかもしれない。
 作者は70年代後半に思春期を迎え、都市で暮らしてきた。この詩集にはひとつの時代がある。それを生きてきたひとりの女性の人生がある。多くの女性に共感を呼ぶ「抒情の質」ではないか、と思えるのだ
 詩集「吹き抜けた時」は空気感を作るのに成功している。一篇一篇の詩が相まって醸し出される、さわやかな、味わい深い詩集だった。

2020年7月4日