言の葉周遊(あきおの読書日記)

読んだ本、気になる言葉、詩を書いていきます

「歴史の起点として福島を捉え直す」飯田哲也

「歴史の起点として福島を捉え直す」
3.11東日本大震災福島第一原発事故から9周年、そして10年目にあたって
isep所長 飯田哲也

「3.11」から丸9年、そして10年目に突入する本日、東日本大震災および福島第一原発事故の犠牲になり失われた人々とその遺族の方々に対して、あらためて深く哀悼の意を表します。

今、日本を含む世界の多くの国々は、新型コロナウィルスの急速な感染拡大、いわゆる「パンデミック」で大変な事態となっています。この事態を巡って日本で起きているさまざまな出来事は、まったく異なる事象でありながら、国による国家的な危機管理という意味で、福島第1原発事故後のさまざまな出来事を思い出さずにはおられず、重なり合う要素も少なくありません。

表面的に見ても、マスクと防護服姿という相似性はさておき、トイレットペーパーやマスクの不足は3.11後に水やガソリンが店頭から消えたことを想起させ、社会全体の自粛・緊縮モードで街中がひっそりと感じられるのも3.11後の節電と輪番停電で暗くなった街を思い出させます。組織的にも個人的にも講演会や集会がことごとく中止・延期となり予定がまったく変わってしまい、「社会的な非常時」を痛感することも同じです。

より重要なことは、この国の根底にあるものの共通性です。その第1はこうした危機に際して国(政府や官僚組織)が機能不全を起こしてしまうこと、第2は国民の生命・安全・健康がけっして最優先に置かれないこと、第3は「専門家」が必ずしも信頼できないことです。たとえば今回も、医療の基本である早期発見・早期対応のために不可欠なPCR検査が中国、韓国や台湾などに比べて桁違いに少ないという事態が放置され、それが逆に国が警戒しているはずの感染拡大や医療崩壊のリスクを増しています。福島第1原発事故が日本だけであったのに対し、今回は中国、韓国や台湾など近隣諸国を含む世界で同時に起きているがゆえに、日本の突出した対応のマズさが可視化されます。それでもなお3.11当時は、当時の菅直人首相率いる官邸は、機能不全の官僚や東電、「専門家」に囲まれながら一所懸命に対応したが、今回は官邸主導による後手後手かつ「やってる感」だけを前面に出した対応が事態をいっそう悪化させているように思われます。

福島第1原発事故後にせっかく画期的な「原発事故子ども・被災者支援法」が成立したにも関わらず、現政権が成立して以後、誠実な施行がされないままに放置され、非常時並みに放射線レベルの高い地域への帰還が強制される一方、避難者の住宅等の支援は次々に打ち切られている。そうした現実と、唐突で効果の疑わしい全国一斉休校やイベント等の自粛に対する支援策が乏しい今回の対応や感染の不安を抱えたまま「検査難民」が生じていることは、「国民の生命・安全・健康がけっして最優先に置かれないこと」で通底しています。「ニコニコ笑っていれば100mSvでも大丈夫」と「ミニ武漢」となったクルーズ船への対応を見ても、日本の「専門家」の危うさが共通しています。

エネルギーに話を戻すと、福島第1原発事故は世界史に残る大事故であることは疑う余地もありません。その事故に学んだのは、当事国の日本ではなくドイツを筆頭とする海外の国々で、しかもおりから加速した太陽光発電風力発電の加速度的な拡大によって、わずかこの10年ほどで今や自然エネルギー100%の未来さえリアルに予見できるようになりました。ところが原発事故の当事国である日本では、今の政権は自然エネルギーの拡大には消極的で、原発と石炭火力を軸とする「旧いエネルギーコンセプト」に執着したまま、世界に背を向けています。

福島第1原発事故は、歴史的な偶然もあって、世界史的なエネルギー転換という「歴史の起点」に位置づけられました。同時に、機能不全を起こしている日本の統治機構や民主主義のあり方を再構築すべき、日本史的な「歴史の起点」にも位置づける必要があると考えます。

第37回 詩のいろり へのお誘い

- 詩を読む 詩を楽しむ -

詩をいろりにくべるように、語り合う時間です。

日 時:3月22日(日)午後2時~5時

場 所:スペースふうら

大阪市東成区深江北3-4-11 バーンユースック 1F

℡ 090-1223-7120

 

 

第一部 午後2時00分~4時00分

新井(あらい)豊(とよ)美(み) 氏の詩を取りあげて、読み、語り合います。

1935年尾道市生まれ。初め洋画、銅版画を学ぶが、1970年代に入ってから本格的に詩と評論を書き始める。詩集に「河口まで」(砂子屋書房)で地球賞を受賞。93年「夜のくだもの」で第23回高見順賞受賞。94年「新井豊美詩集(思潮社)」。2007年、『草花丘陵』で晩翠賞受賞。2009年より日本現代詩人会会長。評論では86年「苦海浄土の世界(れんが書房新社)」、94年「[女性詩]事情(思潮社)」2000年「近代女性詩を読む」など、女性の作品を中心にした詩論集がある。その他、銅版画の仕事としては、石原吉郎「足利」、新川和江「夢のうちそと」など詩集の装丁がある。

 

 

 

 

取り扱う本

・『新井豊美詩集 (現代詩文庫)』(思潮社、1994/01

※ 新井豊美氏の詩で、気になる作品がありましたら、aki-

いろり参加費:500円

 

 

第37回 詩のいろり へのお誘い

- 詩を読む 詩を楽しむ -

詩をいろりにくべるように、語り合う時間です。

日 時:3月22日(日)午後2時~5時

場 所:スペースふうら

大阪市東成区深江北3-4-11 バーンユースック 1F

℡ 090-1223-7120

 

 

第一部 午後2時00分~4時00分

新井(あらい)豊(とよ)美(み) 氏の詩を取りあげて、読み、語り合います。

1935年尾道市生まれ。初め洋画、銅版画を学ぶが、1970年代に入ってから本格的に詩と評論を書き始める。詩集に「河口まで」(砂子屋書房)で地球賞を受賞。93年「夜のくだもの」で第23回高見順賞受賞。94年「新井豊美詩集(思潮社)」。2007年、『草花丘陵』で晩翠賞受賞。2009年より日本現代詩人会会長。評論では86年「苦海浄土の世界(れんが書房新社)」、94年「[女性詩]事情(思潮社)」2000年「近代女性詩を読む」など、女性の作品を中心にした詩論集がある。その他、銅版画の仕事としては、石原吉郎「足利」、新川和江「夢のうちそと」など詩集の装丁がある。

 

 

 

 

取り扱う本

・『新井豊美詩集 (現代詩文庫)』(思潮社、1994/01

※ 新井豊美氏の詩で、気になる作品がありましたら、aki-

いろり参加費:500円

 

 

私的詩読 鮎川信夫詩集

現代詩文庫「鮎川信夫詩集」を読んだ。多くの評論家や学者の方が、鮎川信夫について書かれている。この文は私の忘備録のようなものであることを、お断りしておきます。

 

 おれたちの夜明けには
 疾走する鋼鉄の船が
 青い海の中に二人の運命をうかべているはずであった
 ところがおれたちは
 どこへも行きはしなかった
      略
 おれとお前のはかない希望と夢を
 ガラスの花瓶に閉じ込めてしまったのだ
 折れた埠頭のさきは
 花瓶の腐った水の中で溶けている
 なんだか眠りたりないものが
 厭な匂いの薬のように澱んでいるばかりであった
 (「繋船ホテルの朝の歌」)

 

 戦後、鮎川の精神世界を象徴しているような詩句だ。鮎川は20歳前半で船に乗り戦地へ向かう。そして1943年傷病兵として病院船に乗せられ帰国する。同時代の多くの若者たちが死んだ。戦争にどのような気持で向かっていたのか。

 獲りいれがすむと
 世界はなんと曠野に似てくることか
 あちらから昇り むこうに沈む
 無力な太陽のことばで ぼくにはわかるのだ
 こんなふうにおわるのはなにも世界だけではない
    略
 勝利を信じないぼくは…
 ながいあいだこの曠野を夢みてきた それは
 絶望も希望も住む場所をもたぬところ
      
「獲りいれ」は兵士として動員されることとイメージが重なる。「兵士のうた」に描かれる当時の青年の心情は、狂信的な軍国主義者のアジテーションとは遠いところにあった。兵士たちは約束された死に向かって歩いている。そして、勝利を信じることなく、絶望的に戦う。そして、鮎川は敗戦後、詩の中でこのように語る。

 

 死の獲りいれがおわり きみたちの任務はおわったから
 きみたちは きみたちの大いなる真昼をかきけせ!
 白くさらした骨をふきよせる夕べに
 死霊となってさまよう兵士たちよ

 なぜ死ななければいけなかったのか。鮎川は死者の心を引き受けるかのように、「遺言執行人」として生きることを決める。
戦争は鮎川に深い影を落とした。孤高のひとのように歩む。男と女の関係においても、一筋縄ではいかない。

 わけもなく涙をながす男の
 荒涼とした心に、蒼ざめた花嫁をあたえ
 時は移った。沈黙の
 燃える屋根の下に、愛は
 その秘密を夜のなかに隠していた。
(「夜と沈黙について」)

誰も心の中に入ることを許さない孤高だ。しかし、町は忘却を促すかのように復興する。多くの死者を生み出したことさえ忘れてしまったかのようだ。

 

   どの窓にも 町と同じ大きさの
 沈黙があった。
(「夜と沈黙について」)
 

 鮎川は男と女の関係においても、そして、その他の詩句においても、遺言執行人として深い陰りと意志が、書けば書くほど浮かび上がってくるのだろう。 鮎川が戦前から戦後にかけて、何度も書き直したという作品に「橋上の人」がある。この橋の上に佇む人は誰なのか、鮎川本人のように読める。しかし、橋上の人に「あなた」と呼びかけることによって、鮎川を含めた戦争帰還者=「鮎川のような人」にも読めるのだ。私は、鮎川の父のようにファシズムの旗を振った人のようにも読めた。「1940年の秋から1950年の秋まで あなたの足音と あなたの足跡は いたるところに行きつき、いたるところを過ぎていった」と書かれている。これは誰だろう。もしかして天皇のことか、とさえ思うのだ。
 鮎川の詩の中には「神」がたびたび出てくる。この神の存在も不思議だ。

 戦争を呪いながら
 かれは死んでいった
 東支那海の夜を走る病院船の一室で
 あらゆる神の報酬を拒み
 かれは永遠に死んでいった
(「兵士のうた」)
 

 このあらゆる神の報酬、とはどういうことなのだろう。この詩の中では、どこか遠い国のこととして、聖書をイメージしたシーンがある。その詩句に挟まれるように、病院船の一室が描かれる。これを読んで、日本の兵士にとって「神」あるいは「死」とは何だったのか。と考えてしまう。天皇を神の末裔と奉りながら、神の救いのない兵士たち、これが日本兵だったのではないだろうか。私は鮎川が天皇に対してどのような詩句、文言を残したか承知していないが、どこかで思想的に対置したに違いない、と思うのだが読み取れなかった。
 この世代は戦争経験で全く違うことを表現する。三木卓は少年時代に敗戦を経験している。その後、死んでいく子供たちの目線で、世界を展開していった。鮎川は同時代の青年の「遺言執行人」にならざるを得なかった。
 鮎川の書く詩句はドキッとするようなフレーズがちりばめられている。

 生命は歩む影
 崩れゆく砂の足跡
 岸波につかまって死んだ魚の
 白い骨
        (「夏過ぎて」)
 
 町はだんだん小さくなってゆく
 なにもかも光と影のたわむれにすぎない
   (「夕陽」)
などなど、抜き書きすればきりがない。ことばは魅力的だ。

最後に私は次のように書く鮎川に違和感を覚えた。「兵士のうた」にある一節だが、

 きみたちは もう頑強な村を焼きはらったり
 奥地や海岸で 抵抗する住民をうちころす必要はない

ここには、うち殺された住民への思いはない。読んだ限りでは、略奪された側に思いを寄せるような言葉は出てこない。これは仕方がないことなのか。

驚くような詩句を作り出していった鮎川だけに残念な思いがするのだ。

 

 

 

 


2020年よろしくお願いします。

<あきおの近況と独り言>

 昨年、1969年をテーマに書く機会がありました。当時ボクは16歳。半世紀という歳月が流れているのですね。「信じられない速さで 時は過ぎ去ると 知ってしまったら…」と、竹内まりやさんの歌詞を思い出します。
昨年はタイ、韓国、北海道と旅する機会がありました。

 江華島、ソウル
 昨年、7月に韓国は江華島、ソウル、仁川と旅しました。黄海につながる干潟が見たくて、一度は行きたいと思っていました。渡り鳥のシーズンにはたくさんの鳥の姿が見られるそうです。その一部は日本にも飛んでくるのでしょう。渡り鳥の姿を思いながら、地球の大きさを感じたかったのです。


食べ物も美味しかったこと。
 写真は数キロメートルの海峡を

挟んで見える朝鮮の村。この海をカモメが飛

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対岸に見える朝鮮の村

んでいました。
 江華島は日本が韓国に不平等条約の締結を求めたところです。これ以外に植民地時代の痕跡がたくさん残されています。
 日本は戦争末期、石油が不足したとき、松から航空機の燃料を抽出することを考えました。とんでもない発想ですが、その痕跡が江華島のお寺に残されていました。幹が大きくえぐられている松が、参道にたくさんあるのです。その松の横には、日帝時代の痕跡と、説明書きが添えられています。松から航空機燃料を作る、と言う飛んでもない発想は、僕は親から聞いたことがありました。すっかり忘れてしまっていたことです。傷つけられた松の痕跡は日本国内でも、まだわずかに残されていると言います。日本軍国主義の愚かさ。そういうものはしっかりと記憶に残さなければならないのに、残されていない日本を思います。
ソウルでは「戦争と女性の人権博物館」にも行きました。慰安婦とされた女性の人生を追体験するかのように、展示が続きます。多く日本人に行ってほしい場所だと思います。聞いていたこととはいえ、ショックだったのは、「突撃一番」と包装されたうコンドームを目の当たりにしたことでした。
日本の現代史を知りたければ、韓国へ。という思いを強くしました。
 

北海道
 8月に北海道へ旅しました。10年近く合っていない友人に会いたかったこと。それと、アイヌを少しでも知りたかったのです。
 昨年2月、ミナミナの会のみなさんのご協力で、アイヌの刺繍、工芸品、そして、踊りの催しをふうらでしました。それまで遠い存在だったアイヌ文化を間近に見て感じて、二風谷に行きたい、と思ったのです。
 二風谷はアイヌ民族で初めて国会議員になった萱野茂さんがお住まいになっていたところ。自らアイヌの伝統を伝えようと収集されていた博物館があります。手に触れるところにある数々の品それを前にして、萱野茂さんの人柄に心がほどけるようでした。
 北海道へは車で移動しました。初日の夜に、鹿が前を横切ったのには驚きました。そして、苫小牧周辺に点在する湿原や、日高山脈にまでつながる平原と山々を見ながら、ほんの150年前。「北海道開拓」として、木々が伐採され、アイヌの生活圏が狭められていった時代を思いました。
 そして腑に落ちたことは、大きい製紙会社がなぜ苫小牧にあるのか、ということでした。原生林が伐採されていったのです。それを運ぶために鉄路もひかれました。内地からの植民と開墾。アイヌはどんどん追いやられていったのでしょう。私たちが習うのは、屯田兵などの支配の歴史。見えないことを、見ようとしなければ、歴史はわからない、と思います。
 縄文の昔から、自然の恵みを糧にしてきたアイヌ文化が、ほんの150年前の怒濤のような近代化によって滅ぼされた。そして、アイヌから倭への同化政策で、習俗の変更だけでなく、アイヌ語の禁止、アイヌ名前からやまと名前への変更などを伴いました。その同化政策は、その後、沖縄へ、そして、朝鮮へ、同じ方針が貫かれたのだと感じるのです。
 明治維新という近代化と国家神道は、日本列島に息づいていた、多くのものをうち捨て、ねつ造していった歴史ではないか、という思いを強くしています。

 昨年は2月にはタイ・チェンマイに住む親戚宅に滞在しました。野焼きのシーズンで、大気汚染がひどいことに驚きました。30年前の訪問の時は、自転車三輪車が多く走っていましたが、自動車に変わっていました。大気汚染はそのせいもあるのかもしれません。タイの話はまたの機会に。

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チェンマイのお寺で



 チェンマイのお寺
 犬も寝そべっていました

 


原発のこと などなど

 原発事業者が金をばらまいて、地元を抱え込もうとしている、というのは知っていました。とても大きなお金が動いていることも知っていました。そのお金が、関西電力の幹部に「還流」していたことには驚きました。その金額は三億二千万円以上。
一億円というと生涯賃金にも匹敵するような金額です。この構造が二十年近く繰り返されていたというのです。電気料金の中に私腹を肥やすような金まで組み入れられて徴収されていたのです。電気料金が払えなくて、電気を止められた困窮者もいたのに。
 この不正還流のことには、告発者が募られ、大阪地検に3272人が告発人に名前を連ねています。私も入っています。
 
 福島原発事故がなかったことのように、聖火が走り、オリンピックが行われ、その影で避難者が切り捨てられています。
 都合の悪いことはなかったことにする、という政治は変えなければいけないと思います。

 アベ政権を支える人たちは、歴史を見ようとしない。その中に、日本はアジアで一番だという意識と、韓国、朝鮮は日本より下だという気持ちがあるように思えます。昨年、7月参議院選挙前に突然発表された、韓国への輸出制限。ごろつきメディアが嫌韓を騒ぎ立てる。マスメディアも嘲笑するような特集を組む。それを見る日本人がいる。
 学校や地域で、韓国朝鮮にルーツを持つ人たちがどういう思いで暮らしているのか。メディアに関わる人たち、テレビを見ている人たちは、想像しただろうか。民団の幹部に「息を潜めて暮らしている」と言わせるような状態。こういう空気の中で、日本でガイドをしていた友人の韓国人が、日本を去ってしまいました。残念です。
 ここ数年、友人の李東石さんががソウルで学生生活をしていることもあって、韓国へ行く機会が多いです。以前にも書きましたが、日本と韓国の最も大きな違いは、国家が「国家の犯罪」に向きあってこなかった日本と、韓国の違いだと思っています。韓国は軍事独裁政権下で犠牲になった人々に、謝罪し、償いをしています。それが国家の当然の責務のようになっています。ある社会学者が語っていたことを思い出します。「軍国主義下の治安維持法などの犠牲者に、日本は自国民にさえ、謝罪も賠償もしてこなかった。」と。
 民主化を原点にする韓国と1945年の日本の成り立ちの違いを感じるのです。

詩のこと
 「詩のいろり」という読書会をしています。2ヶ月に1回、今年は第4日曜日に開く予定です。読書会がこんない楽しいとは知りませんでした。詩ならではのいろんな感想や解釈が出されます。いつもあっという間の3時間です。詩集もできる予定です。

2020年1月8日
大阪市東成区深江北3-4-11 スペースふうら
   畑章夫  滝沢厚子
メールアドレス        ffura@ac.auone-net.jp
年初、1月5日、93歳の義母をこの世を去りました。病気で苦しむ期間も短く、天寿を全うされたという思いで見送りしました。


 本年もよろしくお願いいたします。

2020年1月8日

モノガタルカラダ 物語る声

12月15日見てきた!

もう一度見たい!

金滿里×姜信子 企画

モノガタルカラダ/物語る声

「モノガタルカラダ/物語る声」チラシ
金満里(身体表現) 渡部八太夫(三味線、語り、歌) 姜信子(口先案内人)

4回目の公演を見た。 

金満里さん身体表現と八太夫さんの語りと三味線。すごいわ。終わった瞬間声が出なかった。会場もシーンをしている。それは際の割れ目が、金満里さんのところにぽっかり穴を開け、そこに薔薇を持つ彼女が浮遊している感じがしたのだ。
 「際」この演舞、歌、音を聞いて、この言葉が浮かんできた。谺雄二「いまなぜライなのか」金時鐘 「うたまたひとつ」 石牟礼道子「花を奉る」 
谺雄二さんの恋とモラルその間に立ちふさがる塀。八太夫の語りの前で、金満里は殻から抜け出るように指がうごめく、うごめきながら這い出してくる。指一本が恋とモラルの塀を這い出しているような動きだ。 そして、金時鐘さんの「打ってやる」。語りは日本そして自己を、「打ってやる」とバチが響くのだ。身体はその「打ってやる」の響きの前で、せめぎ合うかのように動く。すべてを見よ、と、私を射抜くかのように鋭い眼光を放つ。そして石牟礼道子の花の存在へと向かう。一輪の花は、まさに彼岸と此岸の際に咲くかのように金満里に抱かれている。すべての「際」が収斂されていくようなラストシーンだ。渦巻いているものもが、抱かれた花の前で静まるかのように、金満里と花がその空間で浮遊するのだ。
 ボクには忘れられない公演になった。
 金満里さんの舞台を見るのは20年ぶりくらい。再び出会えたことが、とても嬉しい。

日高てるを読む

日高てるを読む 

 

日高てるは「見る」詩人、「哲学」する詩人。読み進めていくと、ますます、日高てるのいろんな面が見えてくる。
日高てるはインタビューで「「見る」こと「夢見る」ことが、私のいっとう最初の出発点であるため形式如何にかかわらずポエジーの基底をもつ」と述べている。

「種子」という作品が日高てるの詩の方法をよく現している

 

種子

日没の駅のホームのはじっこに立って 私の見る現実とは、遠くの人の行列や風景を 切り刻んだ破片として、眼の球体に並べ張りつけているにすぎない。それらの現実は、水分を吸い熱を吸い、塵埃や人々のいきれを吸って発酵し、膨れあがり、それ自身ゆたかな飽和状態となる。

 

ここに書かれているように、「風景は切り刻んだ破片」。
抒情の入り込む余地はない。次の行はこのように続く。

 

しかし まんいつ隙間から 新しいなにものかが、時間の尾をひからせて、例えば、私の立つホームと次のホームとの間に、緑色の空車がすべりこんだとする
。次から次へと みどりいろの時間をかがやかせて新しい一個のものが(兵器であってもよい)加わると  極限に達した飽和の状態は、たちまちにして一転危機となるのだ すべての機構はへしつぶされ、分裂をはじめた部分部分が水溶性にものに還元される。このおびただしい人や風景の流出。この虚構
 
すべりこんでくる風景の展開は独特の空気を持っている。日高てるは白、黒に注目されるが、案外緑色も多く出てくる。「兵器であっても」という言葉がカッコにくくられているにしては、とても強い。そして最終連

 

あるとき 一個の種子がぶよぶよの球体をきりさいて真っ逆さまに落ちていった
私の眼の球体の亀裂の隙間隙間に凝結していた現実は音もなく燃えやがて私の眼球とともに脱落していくだろう

 

これがその死だ

でこの詩は締めくくられる。

日高には戦争や死や飢えが詩に影を落とす。次の「死体の伝説」は切り花に死のイメージをぶつけてきた作品。生け花、切り花、という部屋を美しく飾るためのものに、日高は死をぶつける。


死体の伝説

 

張りつめている 壺の内部の空間に
剪花を挿す
たとえば それが
死体の伝説であっても
張りつめていた内部の
空間は さざなみを
たて 空気の破片は
こぼれ こぼれ落ちはじめるだろう
けれども
壺の内部の声を聞いたものはいない
ドイツ産 キンカブトが その鰭で水をおし去けるときまばゆい ひかりは 周辺へ周辺へ
つみ重ねられ
うつわの内壁に たくしこまれていく―

壺の内部の声を聞いたものはいない
壺に挿す
死体の伝説は そのあした 祖先の人々からの伝承の歴史を ひかりを 脚に巻き まぶしく
まことに まぶしく 腐り はじめる

 

 花瓶の内部を声を聞く。切り花と死と腐敗。ドイツ産キンカブトという鯉の正体は不明だ。もしかしたら、アウシュビッツなどのホロコーストを想起しているのかもしれない。「死体の伝説」という唐突さには驚く。

 倉橋健一は詩集「カラス麦」のことを「見たものを描くという意味ではなく、見る行為そのものを内在化する試みである」という。

カラス麦全文を紹介する。

 

カラス麦

土の肉体を たちきる
どこから呼ぶのだ
アブラクサス ガラ ガラ ツエ
脱ぎ捨てた古靴 
その脱ぎ捨てた おまえの古靴の踵をけむりの如くひ かりが貫いて

カラス麦

戦争や記憶や
愛を
太陽にむかって

カラス麦

みつめられるごと
額をかがやかせ
茎はのび
じゅぴてるの羽根と思想よりも あおく染め

カラス麦

アブラクサス ガラ ガラ ツエ ツエ と
つまさき立っては茎はのび
千万の
きょうじんな
意志の針金をゆすって
古靴のさき
未来の夜明けの
穴があいて
青い いくせいそうの頭上のみのりを
たわわに弾く

―――――

あなたとむかいあっていると
まぶしくって
こえはききとることができないが
言葉の揺れる速度にあわせて
口のまわりが 
鳥の翔びたつごとくひかるので
それと わかる


 カラス麦は道ばたにはえる雑草だと思っていた。そうではなかった。田を肥やすために、次の恵みのためにまかれる麦だった。そして、この詩で出てくる「ジュピテル」はゼウスとならぶ最高神、呪文のような「アブラクサス」は、地球や人類を創り出し、七つの属性によってこの世を支える神。とある。

カラス麦は ジュピテルの羽と思想よりも青く染め、
アブラクサス ガラ ガラ ツエ ツエ と つまさき立って茎はのび

カラス麦はこのようにすごいのだ。この詩でも
戦争や記憶や 愛を 太陽にむかって カラス麦
このように戦争が登場する。
私は「カラス麦」という詩に、死と再生を感じる。読書会ではここに出てくる古靴は帰還してきた兵士の軍靴ではないか、という指摘があった。確かに、戦後の風景の一つだったのかもしれない。

 日高てるの詩に何篇か「キガ」という言葉が出てくる。カタカナで書かれているので、起臥 飢餓両義を持つのだろうか。日高てるの詩を読み進めると、戦争戦後の精神的、肉体的飢えが意識されているように思える。
詩集 「hungerの森 」の hungerも飢えだ。晩年の詩には「豊穣の飢」という詩もある。日高にとって「飢」は深く詩に影を落としたのだ。
 
その目を閉じることができない

 

ふたりは高みへ高みへのぼっていって
恐れながら眺めていましょう
樹の両側に二つの目が退屈を領するときまで
たち
このとき
はじめての夜
ニホンの港湾の都市の生き死にの夜景がネガと
やきつくまで
夜明けがくるまで
見開いたままに
たち
ひとりの女とひとりの男の生き死にが
砂漠のひかりに
揺れもせず
言葉を発しもせず
おのおののげんしゅくのときをつたえるまで
眼は見開いたままに
刻みつづける
写しつづける
この時
おまえの
キガの衣装が 夏の夜明けの方のうえから孤独の心臓まで
裂けて
まぶしくまたたくのを
わたくしの目が
刻みつづけている
写しつづけているのだ
たしかめようのない
証しようのない愛の贖いを
しかし
このときから
おまえを見はしない
高みの高みのうえの
樹の両側に
秤となって
二つの目は 手をとりあわねば立ちつづけることさえできないのだ
わらいがとまらない
退屈が
見開いたままのまとわりつき領し わたくしとわたくしをやきつくして
しまうまで
そして
恐れている
二つの その目を閉じるときまで


このキガは飢餓なのか。なんなのだろう。この詩の「おまえ」はなんなのだろう。いろんな疑問が湧いてくる。とても不思議な詩だ。日高てるが難解なのは、このようなところなのだろう。

 日高てるの詩には黒い貨幣、黒いイチゴとか黒と異質なものををぶつけてくる。緑色もたくさん出てくる。
 白、黒も詩にはよく出てくる。「白と抜け穴と眼」は日高てるさんの思考がよくわかる作品。彼女はインタビューで次のように答えている。
「あらゆる色彩を集め燃焼させたのが白色であり、それは光といってよい。黒とはいくつもの色をあわせた色であり、百通りはある。私は白は最も恐れる色であり(光に通じるから)黒は安心してその中に身を置くことができる。黒を着る所以です。なお、ずっと以前、昭和14年平壌で見た韓国女性の白の衣装は光でした。今も眼底にあります」

 彼女の詩で描写の鋭さに目を見張るが、それ以上に彼女は考える、哲学する詩人でもある。「果実と風呂敷」「ビニール紙」「一枚の布」「窓」「軒」「屋根」などの作品はまさに哲学だ。眼前の風景から始まって、縦横に時間空間を飛翔する。イメージのまま展開される日高の言葉に、読者は置いてきぼりをくったかのような気になる。「果実と風呂敷」は比較的わかりやすい。


果実と風呂敷

結び目を解けば小集団の個は、ころげ落ちる。他人に手渡そうとすれば内部と布片、個と個の均衡は破れる。
成熟をよせあい かがやきあって転げようとする危機を 偶然のささえで とどめあっている果実と果実。それら果実と風呂敷は何の約束もなく、結び目を解けば一つのものとものにかえる。  叫ばない。

 柿の実の種子は庭に蒔かれてよい。烏が啄んでもよい。個は涙をながさない。蒸発しはしない。かつてものとしてささえあっていた接点を軸として、新しいもの土と烏との出遭いにむかってその全貌をあずける。

 ひとのいちまいのこころに似て、内部のものを包むかにみせて、ひとときをものたちの外皮になり、まろやかな成熟のふくらみをかたちづくって そのものにかたちをあたえ 空間をあたえ。自らも ものの一部となり一包みの柿の実としてともに存していた風呂敷。―成熟の外皮

次は「一枚の布」について書かれた詩
この詩は一枚の布についてこのように定義づけされる。

   一枚の布は 子守唄にして歌うことができる
   一枚の布は 芳醇なコーヒー豆を濾すことができる
   一枚の布は キャンパスにして絵を描くことができる
   一枚の布は 美しさをいろとしてはおることができる

実際の詩には、それぞれの一枚の布に描写がある。
最後の一枚の布はこのように展開される。

   一枚の布は ある日 目隠しをすることもできる
   一枚の布は
    目を守ることもあるが
    風景や街を 恋びとや戦争を
    みえなくすることもある

    戦争という一枚の布は
    人の内部風景を 射殺し抹殺する

日高はこれだけでは終わらない。

  一枚の綺羅の布は
   愛する人に存在の証として振った古代人のように
   こころをいろの領巾として
   振ることができる
   自らのステージを綺羅に迷走させ ラストシーンを飾ることができる
   そして 一枚の綺羅の布は人のこころとタマシイを
   最後のステージで包むことができる。

なんと輝いていることか。作品の中で、戦争を潜り抜け、日高は生の賛歌を歌っているようにも感じる。
一枚の布の考察から、ここまで思考の世界を広げる。すごい詩人だと思う。

晩年の「今晩は美しゅうございます」までたどり着かなかったが、詩誌BLACK PAN を主宰されていた日高てるさん。誌名の由来は詩の中の言葉を引用すると「U氏はヒロシマのキノコ雲をBLACK PANと名付けました」からくる。
戦争、飢餓が詩人に深く影を落とし、「見る」ものにに、割り込むように滑り込んでくる。しかし、日高てるの詩的活力は、時間、空間を自由に飛び回った。
最後に「私の瑠璃の水」は 現代 古代 父母の世界を行く。古代と対話するように、巫女のように語る。声に出して読むと、響きがいい。日高てるさんがここにいる、という感じがする詩だった。