言の葉周遊(あきおの読書日記)

読んだ本、気になる言葉、詩を書いていきます

日高てるを読む

日高てるを読む 

 

日高てるは「見る」詩人、「哲学」する詩人。読み進めていくと、ますます、日高てるのいろんな面が見えてくる。
日高てるはインタビューで「「見る」こと「夢見る」ことが、私のいっとう最初の出発点であるため形式如何にかかわらずポエジーの基底をもつ」と述べている。

「種子」という作品が日高てるの詩の方法をよく現している

 

種子

日没の駅のホームのはじっこに立って 私の見る現実とは、遠くの人の行列や風景を 切り刻んだ破片として、眼の球体に並べ張りつけているにすぎない。それらの現実は、水分を吸い熱を吸い、塵埃や人々のいきれを吸って発酵し、膨れあがり、それ自身ゆたかな飽和状態となる。

 

ここに書かれているように、「風景は切り刻んだ破片」。
抒情の入り込む余地はない。次の行はこのように続く。

 

しかし まんいつ隙間から 新しいなにものかが、時間の尾をひからせて、例えば、私の立つホームと次のホームとの間に、緑色の空車がすべりこんだとする
。次から次へと みどりいろの時間をかがやかせて新しい一個のものが(兵器であってもよい)加わると  極限に達した飽和の状態は、たちまちにして一転危機となるのだ すべての機構はへしつぶされ、分裂をはじめた部分部分が水溶性にものに還元される。このおびただしい人や風景の流出。この虚構
 
すべりこんでくる風景の展開は独特の空気を持っている。日高てるは白、黒に注目されるが、案外緑色も多く出てくる。「兵器であっても」という言葉がカッコにくくられているにしては、とても強い。そして最終連

 

あるとき 一個の種子がぶよぶよの球体をきりさいて真っ逆さまに落ちていった
私の眼の球体の亀裂の隙間隙間に凝結していた現実は音もなく燃えやがて私の眼球とともに脱落していくだろう

 

これがその死だ

でこの詩は締めくくられる。

日高には戦争や死や飢えが詩に影を落とす。次の「死体の伝説」は切り花に死のイメージをぶつけてきた作品。生け花、切り花、という部屋を美しく飾るためのものに、日高は死をぶつける。


死体の伝説

 

張りつめている 壺の内部の空間に
剪花を挿す
たとえば それが
死体の伝説であっても
張りつめていた内部の
空間は さざなみを
たて 空気の破片は
こぼれ こぼれ落ちはじめるだろう
けれども
壺の内部の声を聞いたものはいない
ドイツ産 キンカブトが その鰭で水をおし去けるときまばゆい ひかりは 周辺へ周辺へ
つみ重ねられ
うつわの内壁に たくしこまれていく―

壺の内部の声を聞いたものはいない
壺に挿す
死体の伝説は そのあした 祖先の人々からの伝承の歴史を ひかりを 脚に巻き まぶしく
まことに まぶしく 腐り はじめる

 

 花瓶の内部を声を聞く。切り花と死と腐敗。ドイツ産キンカブトという鯉の正体は不明だ。もしかしたら、アウシュビッツなどのホロコーストを想起しているのかもしれない。「死体の伝説」という唐突さには驚く。

 倉橋健一は詩集「カラス麦」のことを「見たものを描くという意味ではなく、見る行為そのものを内在化する試みである」という。

カラス麦全文を紹介する。

 

カラス麦

土の肉体を たちきる
どこから呼ぶのだ
アブラクサス ガラ ガラ ツエ
脱ぎ捨てた古靴 
その脱ぎ捨てた おまえの古靴の踵をけむりの如くひ かりが貫いて

カラス麦

戦争や記憶や
愛を
太陽にむかって

カラス麦

みつめられるごと
額をかがやかせ
茎はのび
じゅぴてるの羽根と思想よりも あおく染め

カラス麦

アブラクサス ガラ ガラ ツエ ツエ と
つまさき立っては茎はのび
千万の
きょうじんな
意志の針金をゆすって
古靴のさき
未来の夜明けの
穴があいて
青い いくせいそうの頭上のみのりを
たわわに弾く

―――――

あなたとむかいあっていると
まぶしくって
こえはききとることができないが
言葉の揺れる速度にあわせて
口のまわりが 
鳥の翔びたつごとくひかるので
それと わかる


 カラス麦は道ばたにはえる雑草だと思っていた。そうではなかった。田を肥やすために、次の恵みのためにまかれる麦だった。そして、この詩で出てくる「ジュピテル」はゼウスとならぶ最高神、呪文のような「アブラクサス」は、地球や人類を創り出し、七つの属性によってこの世を支える神。とある。

カラス麦は ジュピテルの羽と思想よりも青く染め、
アブラクサス ガラ ガラ ツエ ツエ と つまさき立って茎はのび

カラス麦はこのようにすごいのだ。この詩でも
戦争や記憶や 愛を 太陽にむかって カラス麦
このように戦争が登場する。
私は「カラス麦」という詩に、死と再生を感じる。読書会ではここに出てくる古靴は帰還してきた兵士の軍靴ではないか、という指摘があった。確かに、戦後の風景の一つだったのかもしれない。

 日高てるの詩に何篇か「キガ」という言葉が出てくる。カタカナで書かれているので、起臥 飢餓両義を持つのだろうか。日高てるの詩を読み進めると、戦争戦後の精神的、肉体的飢えが意識されているように思える。
詩集 「hungerの森 」の hungerも飢えだ。晩年の詩には「豊穣の飢」という詩もある。日高にとって「飢」は深く詩に影を落としたのだ。
 
その目を閉じることができない

 

ふたりは高みへ高みへのぼっていって
恐れながら眺めていましょう
樹の両側に二つの目が退屈を領するときまで
たち
このとき
はじめての夜
ニホンの港湾の都市の生き死にの夜景がネガと
やきつくまで
夜明けがくるまで
見開いたままに
たち
ひとりの女とひとりの男の生き死にが
砂漠のひかりに
揺れもせず
言葉を発しもせず
おのおののげんしゅくのときをつたえるまで
眼は見開いたままに
刻みつづける
写しつづける
この時
おまえの
キガの衣装が 夏の夜明けの方のうえから孤独の心臓まで
裂けて
まぶしくまたたくのを
わたくしの目が
刻みつづけている
写しつづけているのだ
たしかめようのない
証しようのない愛の贖いを
しかし
このときから
おまえを見はしない
高みの高みのうえの
樹の両側に
秤となって
二つの目は 手をとりあわねば立ちつづけることさえできないのだ
わらいがとまらない
退屈が
見開いたままのまとわりつき領し わたくしとわたくしをやきつくして
しまうまで
そして
恐れている
二つの その目を閉じるときまで


このキガは飢餓なのか。なんなのだろう。この詩の「おまえ」はなんなのだろう。いろんな疑問が湧いてくる。とても不思議な詩だ。日高てるが難解なのは、このようなところなのだろう。

 日高てるの詩には黒い貨幣、黒いイチゴとか黒と異質なものををぶつけてくる。緑色もたくさん出てくる。
 白、黒も詩にはよく出てくる。「白と抜け穴と眼」は日高てるさんの思考がよくわかる作品。彼女はインタビューで次のように答えている。
「あらゆる色彩を集め燃焼させたのが白色であり、それは光といってよい。黒とはいくつもの色をあわせた色であり、百通りはある。私は白は最も恐れる色であり(光に通じるから)黒は安心してその中に身を置くことができる。黒を着る所以です。なお、ずっと以前、昭和14年平壌で見た韓国女性の白の衣装は光でした。今も眼底にあります」

 彼女の詩で描写の鋭さに目を見張るが、それ以上に彼女は考える、哲学する詩人でもある。「果実と風呂敷」「ビニール紙」「一枚の布」「窓」「軒」「屋根」などの作品はまさに哲学だ。眼前の風景から始まって、縦横に時間空間を飛翔する。イメージのまま展開される日高の言葉に、読者は置いてきぼりをくったかのような気になる。「果実と風呂敷」は比較的わかりやすい。


果実と風呂敷

結び目を解けば小集団の個は、ころげ落ちる。他人に手渡そうとすれば内部と布片、個と個の均衡は破れる。
成熟をよせあい かがやきあって転げようとする危機を 偶然のささえで とどめあっている果実と果実。それら果実と風呂敷は何の約束もなく、結び目を解けば一つのものとものにかえる。  叫ばない。

 柿の実の種子は庭に蒔かれてよい。烏が啄んでもよい。個は涙をながさない。蒸発しはしない。かつてものとしてささえあっていた接点を軸として、新しいもの土と烏との出遭いにむかってその全貌をあずける。

 ひとのいちまいのこころに似て、内部のものを包むかにみせて、ひとときをものたちの外皮になり、まろやかな成熟のふくらみをかたちづくって そのものにかたちをあたえ 空間をあたえ。自らも ものの一部となり一包みの柿の実としてともに存していた風呂敷。―成熟の外皮

次は「一枚の布」について書かれた詩
この詩は一枚の布についてこのように定義づけされる。

   一枚の布は 子守唄にして歌うことができる
   一枚の布は 芳醇なコーヒー豆を濾すことができる
   一枚の布は キャンパスにして絵を描くことができる
   一枚の布は 美しさをいろとしてはおることができる

実際の詩には、それぞれの一枚の布に描写がある。
最後の一枚の布はこのように展開される。

   一枚の布は ある日 目隠しをすることもできる
   一枚の布は
    目を守ることもあるが
    風景や街を 恋びとや戦争を
    みえなくすることもある

    戦争という一枚の布は
    人の内部風景を 射殺し抹殺する

日高はこれだけでは終わらない。

  一枚の綺羅の布は
   愛する人に存在の証として振った古代人のように
   こころをいろの領巾として
   振ることができる
   自らのステージを綺羅に迷走させ ラストシーンを飾ることができる
   そして 一枚の綺羅の布は人のこころとタマシイを
   最後のステージで包むことができる。

なんと輝いていることか。作品の中で、戦争を潜り抜け、日高は生の賛歌を歌っているようにも感じる。
一枚の布の考察から、ここまで思考の世界を広げる。すごい詩人だと思う。

晩年の「今晩は美しゅうございます」までたどり着かなかったが、詩誌BLACK PAN を主宰されていた日高てるさん。誌名の由来は詩の中の言葉を引用すると「U氏はヒロシマのキノコ雲をBLACK PANと名付けました」からくる。
戦争、飢餓が詩人に深く影を落とし、「見る」ものにに、割り込むように滑り込んでくる。しかし、日高てるの詩的活力は、時間、空間を自由に飛び回った。
最後に「私の瑠璃の水」は 現代 古代 父母の世界を行く。古代と対話するように、巫女のように語る。声に出して読むと、響きがいい。日高てるさんがここにいる、という感じがする詩だった。